幸田露伴(1867〜1947)といえば、『五重塔』を代表作とする明治から昭和にかけての文豪であり、私たちのイメージの中では、いかめしいだけの人に映りがちですが、実は「毅然としながらも、押しつけがましくなく子どもに接する」理想的な父親だったようです。橋本さんが書かれた『幸田家のしつけ』(平凡社新書)によれば、娘で小説家の文(あや・1904〜90)は生母を若くして亡くしましたが、後添えの義母は家事が苦手だったため、掃除や食事の作法、身だしなみ、言葉遣いなどは露伴が教え込んだといいます。その教え方で特徴的なのが「やらせてみる」「やってみせる」「もう一度やらせてみる」という「三段重ね」で、子どものレベルを見極めた上で、自らが手本を見せ、再び子どもに経験を重ねさせるものでした。日経ビジネスの書評で『幸田家のしつけ』を取り上げたジャーナリストの清野由美さんは、次のように紹介しています。「露伴が文に伝えるノウハウは、スピリッツだけでなく、ディテイルも徹底している。〈ぞうきんは、刺したものより一枚ぎれがいい。刺しぞうきんは不潔になり易い。大きさは八つ折が広げた手のひらからはみ出さない位であること。バケツには水を六分目に入れる。ぞうきんをしぼり上げた際、水滴を四方に飛び散らせないためである。少ない水はすぐ汚れるから度々取り替える。これを面倒がるのはケチだという〉痛快なような、ああ、もう、うるさいなあ、分かったよ、と言いたくなるような、微妙なまでのディテイルではあるが、その先に続く“幸田家でケチは最も蔑まれ嫌われた言葉であった”にこそ、江戸に生まれた露伴流の真意がある。露伴が生きた時代から100年が過ぎ、何事もすべて簡便に流れる今、私たちは逆に、こういった時代がかった美意識にこそ、生きる基準を見出そうとしているのだろう」と書いて、〜『品格』とか言いたかったら、これを読んでから〜という、これまた痛快な見出しをつけています。
橋本さんは、1937年東京生まれ。62年読売新聞社に入社、主に婦人部(現・生活情報部)で教育・子どもに関する問題を担当して97年定年退職。ほかに『荷風のいた街』(ウェッジ文庫)などの著作があります。子どもの頃、露伴と荷風の家の近くにお住まいで、露伴の葬儀を偶然目撃されたことがあるそうです。子育てだけでなく、地域やビジネスにおける人間関係が問われる今、文が回顧する『畢竟、父の教えたことは技ではなくて、これ渾身ということであった』など、幸田家に習いたい生活美学をお話しいただきます。
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